歴史

2006年3月11日 (土)

大室公園(前橋市西大室町)

P3110037 群馬には古墳が多い。かつては約1万基の古墳があったといわれている。東国では群を抜く数である。数だけではない、東国で一番大きな古墳も群馬県に存在する。太田市の天神山古墳である。天神山古墳は全長210m、5世紀半ばに造営されたと推定されている。当時、東国一の勢力であった上毛野氏を首長とする毛野国の中心はここ太田市付近であったろう。関東平野は上毛野氏が実質的に治めており、朝廷からある程度、独立した国だったのではないかと思わせる品(鈴鏡)も関東地方の古墳から出土している。

6世紀初め、東国に大事件が勃発する。武蔵国造をめぐる争いである。国造の座を争って一方が大和朝廷に、もう一方が上毛野氏に応援を求め、結局朝廷に応援を求めた方が勝利したという結末であった。この話は日本書紀に書かれているが、上毛野軍と朝廷軍の間で戦があったのかどうかまでは、わからない。ただ、当時の上毛野氏は朝廷に対抗できる勢力であったと言うことはできる。(そうでなければ、当事者の一方が上毛野氏に支援を求めたりしない)。この争いで、敗者側となってしまった上毛野氏は勢力範囲が大分狭くなってしまったようで、その後の古墳の造営状況からみて、勢力の中心が現在の前橋市の大室付近に移ったようだ。前橋市西大室付近では7世紀にかけて造られた大型前方後円墳が密集している。その大室古墳群の、前二子、中二子、後二子の3つの重要な古墳を中心に整備されたのが、大室公園。

P3110001前置きが随分長くなりましたが(実は私、郷土史、特に古墳時代に強い興味を持っていた時期がありまして)、暖かな春の日差しに誘われて、大室公園に行ってきました。

広いです、大室公園。古墳の他に赤城型民家や親水ゾーン、岩室ゾーン等があるということなんですが、全部を廻り切れませんでした。

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園内の「五料池」にはたくさんのカモが泳いでいました。

P3110052_1 梅園では、紅梅が満開。白梅も三分咲きというところで、ミツバチが忙しそうに飛び回っていました。

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ヤドリギです。黄色い実がたくさん成っていました。鳥にとってはきっとおいしい実なんでしょうね。

大室公園、大変良い所なんですけど、一言だけ。近くに養鶏場があって臭いがちょっとね。

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トイレの表示です。さすがは古墳を中心とした公園です。

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2006年3月20日 (月)

相川考古館

Img_1241 5~6世紀の毛野国(古代ぐんま)は、東国の中心地であったことは、「大室公園」の記事で書いたとおり。古墳が多いと言うことは、当然埴輪も多い。群馬県県内の古墳からは重要な埴輪も多数出土している。教科書によく出てくる「挂甲に身をかためる男子」の埴輪は、太田市飯塚出土の国宝(東京国立博物館所蔵)。

県教育委員会の資料によると、群馬県内に存在する国指定重要文化の埴輪は5点。そのうち4点が『相川考古館』(伊勢崎市三光町6-10)の所有。その相川考古館に30年ぶりに行ってみた。

P3190018 相川考古館はそれ自体が史跡みたいな感じ。江戸時代の脇本陣の建物や土蔵に史料が展示されている。昭和25年10月に相川之賀氏のコレクションを展示する私立博物館として開館し、平成5年に財団法人となり現在に至っている。

受付で入館料500円を払うと、受付の人が「ここは初めてですか?」と聞いてきたので、2度目だったが、以前来たのは小学生の時だったので「はい。初めてです。」と答えた。すると、中を案内してくれるというので、お願いした。

Tinhiki この日は、「雛人形展」の最終日だった。明治期から昭和25年頃までの雛人形がたくさん展示されてた。今では珍しい御殿飾りも目を引いたが、中でも面白かったのは「ちんひき」という人形。女官が犬(狆)を散歩させている人形だ。今でも親戚がガラスケース入りの藤娘を送ったりするが、それに該当する人形らしい。犬は安産の象徴だから、こういう人形があったのか?

土蔵は2階建ての展示室になっていて、石器、埴輪、土器などが多数陳列されている。「この前の中越地震でも展示物がひとつも倒れなった」と案内してくれた人が言っていた。建物自体がかなり古く、ゆるみがあったので揺れを吸収したんじゃないだろうか?

Haniwa_1 国指定重要文化財の4つの埴輪は新しい立派な収蔵庫に展示されていた。いすに腰掛けて琴を弾く男子の埴輪はなんとも表情がイイ。琴をつま弾いているが、腰には短剣を差している。この埴輪は以前はよく教科書に掲載されていた有名人。この他に、鎧に身をかためた武人が1体と冠をかぶり正装した男子が2体。いずれも古代の豪族の姿を活き活きと今に伝えてくれる。久しぶりに素晴らしい埴輪を見ることができた。満足。

P3190014 この他に敷地内には群馬県でもっとも古い茶室「觴華庵」(県指定重文)がある。趣のある建物であるが、近づいて見ると、相当痛んでいる。近いうちに全面改修が予定されているという話だ。

この日は日曜日だったが、私の他に来館者は見えなかった。やはりいかに素晴らしい埴輪でも、所詮はハニワ。地味で一般受けはしないのだろうか? 群馬県民は1度は見ておくべきだろうと私は思うのだが(そう言う私もまだ2回目)。

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2006年5月 6日 (土)

土屋文明記念文学館

Img_2530 高崎市保渡田町(旧群馬町保渡田)に「土屋文明記念文学館」があります。土屋文明にはあまり興味がないのですが、企画展「手にとって見る雑誌展 -戦中・戦後 その断絶と継続-」が面白そうなので、行ってきました。

Img_2549 Img_2557 展示室には日中事変の頃から戦後間もない頃までの雑誌が並べてあり、手にとって読むことができます。この時代は終戦を境に日本が激変した時代で、雑誌を見ることでそれを感じることができます。ただ、戦中・終戦直後というと非常に暗く、厳しい時代だったという印象ですが、意外とその時代の雑誌にはその暗さはあまりないという印象でした。終戦から1年経たずに発行された雑誌も結構オシャレな記事が掲載されていたりしました(そんな雑誌にも「蝗を食べよう」なんて記事も載っていましたが)。

Img_2555_1 私には小学生の子供がいて、小学館の「小学○年生」を読んでいますが、当時の「小学○年生」や「良い子の友」を読むと、内容が今よりずっと大人っぽいですね。

企画展「手にとって見る雑誌展 -戦中・戦後 その断絶と継続-」は6月25日(日)まで。

Img_2544 土屋文明記念文学館は「上毛野はにわの里公園」の一角にあり、文学館の隣には八幡塚古墳が建造当時に近い形に復元されています。

八幡塚古墳: 国指定史跡保渡田古墳群の一つで、5世紀後半の前方後円墳。墳丘96mで2重の堀が巡り、全長190m。当時の有力豪族の墓と考えられている。

群馬県立土屋文明記念文学館HP

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2006年10月27日 (金)

ぐんま考古学ワールド2006 (県庁)

Img_4069 (財)県埋蔵文化財調査事業団(略称:まいぶん)主催の『ぐんま考古学ワールド2006』が県庁を会場に今日から29日(日)まで開催中です。考古学ファンの私としては押さえておかねばならない好企画。

県庁舎1階県民ホール北側では「展示会 ぐんま発掘玉手箱」が行われています。
県内の遺跡から出土した遺物が約500点展示されています。

Img_4051_1 縄文時代のお台所。ここでお母さんが美味しい食事を作っていたのでしょうね。
お父さんがイノシシでも仕留めた日には家族が大喜びでご馳走を食べていたのかな。

Ayu かまどの横にはアユが。

Img_4055 洒落た形の縄文土器。「釣手形土器」といいます。

神事を行う時に使われたランプ、御神灯です。縄文人達はどんなことを神に祈っていたのでしょうか。

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Img_4063 ハニワ達。古代群馬上毛野国ではたくさんの古墳が造られていました。大和朝廷にも対抗できるくらいの勢力があった時代もあります。古墳が多ければ当然埴輪もたくさん出土しますが、数だけでなく、考古学上重要な埴輪も群馬から少なからず出土しています。古墳大国ぐんまは埴輪王国でもあります。
埴輪には兵馬俑のようなリアルさ(ある意味血生臭さ)はありませんが、暖かさを感じますね。兵馬俑が動き出したら恐いですが、埴輪が動き出したら楽しそうです。(大魔神は恐いかな)

Img_4057 建造当時を再現した古墳の模型。

今では雑木林の小山になっている古墳ですが、造られた当時は葺石(ふきいし)で覆われ、埴輪が飾られていました。とても美しく神々しい感じがしたでしょうね。

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本物の縄文土器や弥生土器などを触ることのできるコーナーもあります。

Img_4067 奈良県の藤原京から出土した「木簡(もっかん)」(複製)。今の榛東村桃井付近から天皇に献上されたアユに付けられていました。当時はもちろん鮮魚ではなく薫製などに加工して都まで運ばれていました。アユは千三百年前のぐんまの名産だったのかな~?

10月28日、29日には県庁地下に眠る前橋城の遺跡を巡る「前橋城探訪ツアー」や勾玉づくり、土器づくりが体験できる「古代体験」、古代食が食べられる「古代食まつり」などが開催されます。
詳しくは→ぐんま考古学ワールド2006を行います

財団法人 群馬県埋蔵文化財事業団HP

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2006年11月 4日 (土)

大室公園(前橋市西大室町)

午後、次女と大室公園へ。南口の子供の遊び場は家族連れでいっぱい。ふわふわドームなどで遊んだ後、園内を散歩しました。

Pb040015 五料沼ではカルガモ、マガモ、コガモたちがのんびり泳いでいました。

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今頃、ツツジやシバザクラが咲いていました。このところの陽気で春と勘違いしたのでしょうか。

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桜も咲いていました。「カンザクラ」って書いてあったんですけど、違うような・・・。何でしょう、コレ?

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Pb040006 十月桜と判明しました(11月8日)

大室公園といえば、古墳です。大室公園には前二子、中二子、後二子、小二子という4基の国指定史跡があり、この周辺が6世紀の上毛野国の中心地でした。(東国の中心地と言った方がよいかも知れません)。

前二子古墳の横穴式石室。1880年にはアーネスト・サトウが調査に訪れているそうです。石室の中はベンガラで赤い彩色が施されていました。(今でもかすかに残っています)

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遊具、花、鳥、古墳。大室公園は家族みんなで楽しめる場所です。

大室公園(前橋市HP)

大室古墳群(埋蔵文化財事業団HP)

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2006年11月13日 (月)

群馬県立歴史博物館 (高崎市・群馬の森)

昨日の午後、群馬の森にある「県立歴史博物館」に行ってきました。(子供に「歴博で面白そうな展示してるから、行こーよ」と誘ったのですが、「え~、行かな~い」とつれない返事。しかたなく1人で出かけました。)

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歴史博物館では現在、子供のための特集展示「むかしのくらし」を開催中です(11月26日まで)。明治から数十年前までの暮らしの道具や生活の様子がわかりやすく展示されています。

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昔の教室や囲炉裏、茶の間の再現、食事の道具の移り変わり、洗濯機。何十年かタイムスリップしたみたいで楽しめました。多分、子供達よりも実際にこんな道具を使っていた私の親世代が喜ぶだろうと思います。(私も子供の頃に見たり、使った記憶がある道具もありましたけど)。

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私が小さかった頃、こんなお釜でご飯を炊いていた記憶があります。そう言うと、奥さんが「あんた、歳ごまかしてるでしょう~」って疑いの眼差しを向けます。

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電気洗濯機とタライの間にある丸いものは「手回し洗濯器」。高崎の林製作所という会社が開発した機械で、昭和33年に群馬県知事から表彰を受けたほか、日米英独の4カ国で特許を取得しました。しかし、同時期に電気洗濯機が登場したため普及しなかったというちょっと悲しい歴史のあるモノです。

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便器の横の噴霧器がイイですね

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群馬県立歴史博物館HP

群馬の森

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2006年11月21日 (火)

世良田東照宮(太田市世良田)

太田市世良田町にある「世良田東照宮」。
この地は源氏の名門新田氏ゆかりの地。新田氏の開祖新田義重の居館跡と言われています。
徳川家は新田氏から分立した世良田氏の自称末裔であるため、ここ世良田は徳川家発祥の地と称されます。

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徳川家康は元和元年(1615年)の大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼしホッとしたのか、その翌年の元和2年(1616年)、75年の生涯を駿府城でとじました。遺体は、いったん久能山に葬られ、遺言によって翌年2代将軍秀忠が日光に改葬し日光東照宮を造営しました。

世良田東照宮は寛永21年(1644年)3代将軍家光により、徳川氏の遠祖とされる得川義季の墓があり天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建されました。世良田東照宮の拝殿は日光東照宮の創建時の社殿を移築したもので大工頭中井大和守正清の最後の作とされます(国重文)。

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本殿の彫刻「巣籠もりの鷹」。松の木に作られた巣に3羽のひな鳥が籠り、左右の親鳥がひな鳥を見守っています。 家族愛、子孫の安泰、家内安全を表しています。左甚五郎作、狩野探幽画と伝えられています。(この鷹を恐れて野鳥が近づかないと言われているそうです)。

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幕府は世良田東照宮とその別当として祭祀にあたる長楽寺を篤く保護しました。長楽寺の寺領百石に加え、東照宮に神領二百石、合わせて三百石の朱印地を与え、東照宮社殿の修理保全は全て幕府が行い、祭典の費用も負担しました。
東照宮周辺の村々にも恩恵がありました。幕府は神領を灌漑するために用水路を開きましたが、その余水を沿線の村々に与えました。また、近隣の上州13カ村、武州9カ村を東照宮の火の番助郷として防火消火にあたらせ、一般の夫役を免除しました。東照宮の鎮座により地元も栄え「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・・」と謡われたということです。

世良田東照宮HP

世良田氏(Wikipedia)

人はただ身のほどを知れ草の葉の露も重きは落つるものかな
          徳川家康

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2006年12月 3日 (日)

岩神の飛石 岩神稲荷神社(前橋市昭和町)

前橋市昭和町、群大病院のそばにある「岩神稲荷神社」、別名「飛石稲荷」。その別名のとおり、御神体は周囲60m、地表に出ている高さは約10m、さらに地下に数mは埋もれているという巨岩です。
この岩は赤褐色の火山岩です。飛石と言うからには、どこかの火山から飛んできたのでしょうか? さすがに火山から飛んできたのではなく、押し流されて来たようです。
赤城山の山頂が崩落し板東橋付近に押し出され、その後の大洪水によって運ばれたという説と、浅間山が崩落し、同じように洪水によって流されて来たという説があるようです。どちらにしても、こんな巨大な岩をここまで運んだ自然の力というのは恐ろしいものです。この巨岩は国指定の天然記念物となっています(昭和13年12月指定)。

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これだけの巨岩ですから、人々の信仰の対象となるのは当然だったと思います。岩神の飛石ににまつわる伝説も残されています。
昔、石工達がこの岩を石材として利用しようと考え、岩にノミを入れたところ、そこから真っ赤な血が噴き出し、石工達は逃げ出した。地元の人達はそれを神のたたりと信じ、岩を恐れ、ここに神社を建てたという話です。

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岩神稲荷神社の境内には大きないちょうの木があり、紅葉の盛りでした。風が吹けばいちょうの葉っぱの大乱舞になるでしょうね。

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ところで、この巨岩がこの辺りの地名の「岩神町」の由来であることは容易に想像できるのですが、現在の住所表記では岩神稲荷神社の住所は「昭和町」となっています。(川を隔ててすぐ隣は岩神町なんですが)。

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岩神稲荷神社(飛石稲荷)
 前橋市昭和町3-29 地図

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2006年12月23日 (土)

虎姫観音 (前橋市大手町)

県庁の西、利根川河畔に六角形の小さなお堂があります。「虎姫観音堂」です。お堂の中には美しいお顔の漢音さまが祀られています。
この「虎姫観音(お虎観音)」には悲しく、恐ろしい「お虎伝説」と呼ばれる話が伝わっています。

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前橋城の西、利根川の流れが城に突き当たるところは「お虎が渕」と呼ばれておった。(旧競輪場跡あたり)
前橋城主が酒井氏の頃、城中に「お虎」と呼ばれる美しい女子がおったそうな。お虎は赤城山麓の農家の娘だったが、殿様が鷹狩りの際にみそめられ、城に召されたそうじゃ。
殿様はお虎をたいそう気に入り、いつも身近において身の回りの世話をさせておったそうな。
こうなると、城中のお呼びがかからなくなった奥女中たちは嫉妬にかられ、お虎のアラを探し難癖をつけようとするのじゃが、お虎にはつけいるような欠点がなかったのじゃ。
それがまた奥女中たちの癪に障り、嫉妬の炎はますます燃え上がるばかりじゃった。
そこで、奥女中たちはとんでもない悪だくみ考えおった。
なんと、殿様のご飯茶碗に折った針を忍ばせたんじゃ。
給仕役のお虎は、何も知らずに針の入ったお椀を殿様の前に・・・・・
「何じゃ、これは、何でこのようなものが余の椀に入っておるのじゃっ!」と殿様は激怒。
何のことか全く分からず、うろたえるお虎。
奥女中たちはすかさず、「お虎が殿様の暗殺を企んだのでございますっ!」
(こんな、ウソに引っかかるのはよほどのバカ殿だと思うが)
こうして無実の罪を着せられたお虎はヘビやムカデを詰めた木箱に押し込められ、生きたまま利根川に沈められたんじゃ。
お虎は木箱の中で「この報い思い知らせてやる~」とうめきながら渕の底に沈んでいったんじゃと。
その後のことじゃ。毎年秋には利根川は洪水となり、前橋城の西端は川に欠け落ち、ついには本丸まで崩れ落ちてしまったのじゃ。
人々は、これはお虎のたたりじゃ、怨念に違いないと思ったそうじゃ。そしてお虎の怨霊を鎮めるために近くの寺に「お虎稲荷大明神」として祀ったそうな。
そして、今では「虎姫観音」として利根川の岸にお祀りされておるんじゃ。

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この観音様には「ボケ封じ」の御利益もあるそうです。はい、私ももちろんお願いしました。(手遅れ?)

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(虎姫観音堂はお堂脇の木が倒れ、屋根が破損したため、現在ブルーシートがかけられています)

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2007年1月 2日 (火)

産泰神社 (前橋市下大屋町)

家族での初詣は元日に前橋市下大屋町の「産泰神社」へ行くのが恒例となっています。
地元では「産泰さま」と呼ばれ親しまれている神社です。主祭神は木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)で安産と子育ての信仰を集めています。このため、初詣に訪れる人達も家族連れや若いご夫婦(特に奥さんご懐妊中)がほとんどです。
我が家も奥さんが長女を身ごもったときの安産祈願以来、ずっと産泰さまにお世話になっています。

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神社の創建は履中元年(400年?)とも言われていますが不明です。しかし、社殿の背後に岩神稲荷神社にあるような巨石が鎮座し、巨石信仰に起源があるとみられるため、信仰の歴史はかなり古いと推測されています。

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産泰神社の建物と敷地は県の重要文化財に指定されており、4月18日の例祭に奉納される太々神楽は市の重要無形文化財に指定されています。

産泰神社太々神楽 (前橋市HP)

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2007年1月 4日 (木)

青柳大師(前橋市龍蔵寺町)

前橋市龍蔵寺町にある「龍蔵寺(青柳山談義堂院龍蔵寺)」は『青柳大師』の名前で知られるお寺です。比叡山延暦寺の中興の祖、「慈恵大師(良源)」(通称「元三大師」)をお祀りしています。
元三大師の命日に当たる1月3日は年に一度の「ご開帳」。大師像を安置している厨子を公開し、境内はたくさんの参拝者でにぎわいます。(三が日の人出は毎年県内ベスト5に入っています)。

昨日の昼頃に行ってみたのですが、参拝者の列が参道まで長~く延びており、行列に並ぶのが嫌いな私はひとまず参拝を断念。夕方出直しました。(ご開帳は16:00まで)。

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龍蔵寺の創建は延暦2年(782年)日光開山の勝道上人によると伝えられています。当時は満願寺と呼ばれていましたが火災で焼けてしまいました。その後笠間道玄入道という人が厩橋城築城に際して鬼門除けとして建立され、寺名も龍蔵寺と改められました。

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天明3年(1783年)、浅間の大噴火による災害復旧工事の際、黒衣をまとった僧が現れ、一心に読経し村人を救いました。不思議に思った人々が元三大師の厨子を開くと東向きに置かれていたはずの大師像が西を向き全身に汗をかいていたということです。以来、この寺は厄除大師として人々の篤い信仰を集めるようになりました。

P1030890_1 元三大師はおみくじの創始者だそうです

地図

龍蔵寺町は大師町 (前橋市HP・一地区一自慢)

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2007年1月 7日 (日)

小泉稲荷神社(伊勢崎市)

今日は伊勢崎の奥さんの実家で新年会。そのついでにちょっと足を伸ばして「小泉稲荷神社」へ。
「小泉稲荷神社」は伊勢崎市小泉町にあり、毎年新年には多くの初詣客で賑わいます。今年も元日だけで7万人の参拝者が訪れました。

小泉稲荷に向かって走っていると田んぼの中に大鳥居が姿を現します。高さは22.17m。県内一の高さです。(ちなみに赤城神社の大鳥居は21.3m)。
迫力あります。

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社殿の前には京都の伏見稲荷のように大小の赤い鳥居がたくさんあります。3列、100mにわたって立ち並んでいる鳥居の数は約250基。

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赤い鳥居のトンネルを抜けると、狐が・・・
子狐もいます。

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「小泉稲荷神社」は毛野国(群馬・栃木)開拓の祖神とされる豊城入彦命が、東夷征討の折に山城国伏見稲荷の分霊を祀って創建したと伝えられているそうです。
お稲荷さまといえば商売繁盛の神様ですが、五穀豊穣の神としても広く崇敬されています。今日も、すでに正月七日でしたが、参拝に訪れる人が結構いました。
4月15日の大祭にも多くの人で賑わうそうです。

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小泉稲荷神社

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2007年1月 8日 (月)

伊勢崎神社 (伊勢崎市本町)

神社仏閣ネタが続きます
新年なので・・・・

昨日、奥さんの実家の新年会で飲んだり食べたり、七草だというのに胃を酷使した私は酔い覚ましと腹ごなしに寒風の中「伊勢崎神社」までお散歩。

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伊勢崎市本町にある「伊勢崎神社」。建保元年(1213年)に三浦介義澄(源平合戦~鎌倉時代の武将)の創建と伝えられています。元は「飯福神社」と称されていましたが、大正15年(1926年)に近郷の神社を合祀し現在の「伊勢崎神社」という社号に改められました。
緻密な彫刻が施された見事な本殿は嘉永元年(1848年)に造営されたものです。

お参りしようと本殿に近づくと目に入ったのは飛行機のプロペラ!?

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このプロペラは戦時中に中島飛行機(富士重工業の前身)の従業員が飛行機が無事帰還するようにとの祈りを込めて奉納したものだそうです。
中島飛行機といえば群馬県太田市に本拠を置き、終戦前の日本最大、世界有数の航空機メーカー。軍用機・民間機合わせて126機種、約3万機を生産。名戦闘機「隼」を生み出し、B-29を大きく上回る爆撃機「富嶽」を計画したことなどで有名です。また、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のライセンス生産も行っていました。(設計元の三菱よりも生産数は多く、全体の2/3は中島飛行機で作られたそうです)。

このプロペラ、木製だと思うのですが、どんな機種で使われていたプロペラなんでしょう?

伊勢崎神社HP

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2007年1月 9日 (火)

いせさき明治館 ~黒羽根医院旧館(旧今村医院)~

伊勢崎市曲輪町にある「いせさき明治館」。明治45年(1912年)に伊勢崎藩の藩医の家柄だった今村家の信四郎氏により今村医院として建築された県内最古の木造洋風医院建築です。
昭和59年までは黒羽根内科医院として実際に使われていました。

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この「いせさき明治館」(黒羽根内科医院旧館)は、当初からこの場所にあったわけではありません。町の拠点施設として保存・活用するために平成14年にこの場所に移転しました。その方法は解体・復元ではなく、建物をそのままの形で100mも引っ張る「曳き屋」。2日がかりの作業で、建物は伊勢崎市街地のメインストリート本町通り(県道前橋館林線)を横断!し、本町から曲輪町に移動しました。
このときは市を上げての盛大なイベントだったようです。

私はまだ建物の中に入ったことがないのですが、展示会やイベントの会場として使用されているようです。是非、機会を見つけて建物の中も見てみたいです。

建物の横には丸ポスト(正式名「郵便差出箱1号丸型」)が立っています。飾りではありません。ちゃんと手紙を投函できます。

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いせさき明治館
■建築名称 黒羽根内科医院旧館(旧今村医院)
           伊勢崎市指定重要文化財
■所在地    伊勢崎市曲輪町31-4
                (移転前 本町23-7)
■建築年代 明治45年
■建 て 主   今村 信四郎
■設計技師  阿部 石松
■棟   梁  藤丸 兼吉

いせさき明治館(伊勢崎市観光協会HP)

全部見せます“曳き家移転”(My townいせさき)

今日の黒羽根内科医院旧館(曳き屋の準備作業から移動の様子)

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2007年1月10日 (水)

旧時報鐘楼 (伊勢崎市曲輪町) ~県内最古の鉄筋コンクリート建造物~

伊勢崎ネタで引っ張ります
伊勢崎まちなか洋風建築探訪の旅 第2弾。

伊勢崎市曲輪町、北小学校のそば(つーか「島田もんじやき店」のそば)にある「旧時報鐘楼」。伊勢崎市のシンボル的存在の建物です。
大正4年(1915年)、横浜の貿易商で伊勢崎市出身の小林佳助氏が建てたもので、鉄筋コンクリート造りの建造物としては群馬県最古。

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昭和20年8月14日の空襲で塔屋部分が焼失、戦後、塔屋部分は寄せ棟造りになり、火の見櫓として使われていましたが、市制施行50周年記念として平成2年に創建当時のドーム状の屋根に復元されました。

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高さは14.56m。ゆるやかな曲線を描く美しいシルエットのレンガ張りの外壁が大正ロマンの香りを漂わせています。
昔は朝夕に時を告げる鐘が鳴っていたということですが、今では鐘はありません。当時はどんな音色だったのでしょうね。

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場所 伊勢崎市曲輪町28-23

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2007年1月14日 (日)

どんど焼き

今日は町内の「どんど焼き」でした。

どんど焼きは小正月の代表的な行事です。
田んぼの中に竹を組み、篠竹や藁で作ったやぐらの中にお札や達磨を入れて焼きます。
門松や注連飾りによって出迎えた歳神様を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされています。

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私も参加して昨日ついたお餅も篠竹に刺して準備OK

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念のため消防車もスタンバイ

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点火!

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火が落ち着いたら、餅を焼いて食べます。
どんど焼きの火で焼いた餅を食べると病気にならないと言われています。今年の無病息災を願いながら餅を焼き、甘酒といっしょに頂きました。

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2007年1月23日 (火)

『富岡製糸場と絹産業遺産群』世界遺産登録の国内候補地に決定!

群馬県と関係機関が共同提案した「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産暫定リスト(一覧表)に追加記載されることになりました。
今回、追加記載されるのは「富岡製糸場と絹産業遺産群」の他、「富士山」(山梨、静岡県)、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」(奈良県)、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県)の計4件です。

富岡製糸場のある富岡市では今夜、お祝いの提灯行列がありました。

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「富岡製糸場と絹産業遺産群」世界遺産暫定リストの追加物件に選定!(県庁HP)

富岡市HP

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2007年2月 3日 (土)

豊武神社の節分祭(伊勢崎市大正寺町)

今日は節分。伊勢崎市大正寺町にある「豊武神社」で開催された節分祭に行ってきました。

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明治42年に周辺の7社を大正寺町の八幡宮に合祀し、その地区の名前、富塚、除ヶ、大正寺、下道寺の頭文字「と・よ・た・け」から「豊武神社」としたのがこの神社の名前の由来です。

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「豊武神社節分祭」は、この豊武神社に縁のある富塚、除ヶ、大正寺、下道寺の4町の満四十歳を迎えた男達(年男)が男の大厄である数え四十二歳の厄払いの儀式として運営しています。今回で96回を迎える伝統ある地域の行事です。
節分に有名人が豆まきをする大きな寺社はありますが、費用も含め運営をその地域の中堅が自主的に行う氏神様の節分祭というのは珍しいのではないでしょうか。

豊武神社の境内は詰めかけた地域の人達で埋め尽くされていました。

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打ち上げ花火を合図に豆まき開始。年男は背広に裃という出で立ちです。

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年男の皆さんは、昨年から1年をかけてこの祭の準備をしてきました。このような地域の伝統的な活動が生きている豊武地区って、とても素晴らしいと思います。

「第96回豊武神社節分祭」が行なわれました(My town いせさき)

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2007年2月 9日 (金)

青い目の人形(東吾妻町立坂上小学校)

昭和2年1月、横浜港に入港したサイベリア丸には、青い目の人形(親善人形)の第一陣が乗船していました。アメリカからの長旅を無事に終え、人形たちは「人形を迎える歌」の大合唱で歓迎されました。

「人形を迎える歌」(高野辰之作詞)
一.海のあちらの友だちの まことの心のこもってる
  かわいいかわいい人形さん あなたをみんなで迎えます
二.波をはるばる渡り来て ここまでおいでの人形さん
  さびしいようには いたしません お国のつもりでいらっしゃい
三.顔も心もおんなしに やさしいあなたを誰がまあ
  ほんとのいもうと弟と思わぬものが ありましょう

合計約1万2千体の人形が来日し、全国の小学校や幼稚園などに贈られ、受け入れ先の学校でも盛大な歓迎会が行われました。
しかし、昭和16年12月、日米開戦により人形の立場は一変します。敵国の人形、敵国のスパイとして、ほとんどが処分されてしまいました。当時の状況からして、それは仕方なかったと思います。

東吾妻町立坂上小学校の『ローズ・メアリー』も米国からやって来た青い目の人形うちの1体です。当時、坂上尋常高等小学校では、メアリーちゃんを迎える歌ができるなど大歓迎を受けました。
戦時中、学務部から焼却命令が出ましたが、校長の指示で用務員室の押入れに密かに隠されていました。

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歴史の中で複雑な運命をたどったこの『ローズ・メアリー』は今、子供達に何を語りかけているのでしょうか・・・・・。

群馬県には当時142体の青い目の人形が贈られ、そのうち現存するのは19体だと言うことです。

青い目の人形通信(日本はきもの博物館、日本郷土玩具博物館HP)

東吾妻町立坂上小学校

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2007年2月10日 (土)

昔の名久田川の情景を描いた随筆を書かれた篠原うめさん(76)から頂いたもう一つの作品あります。題名は『』。農耕馬は農業の機械化によって昭和30年代で農村から姿を消してしまいましたが、この作品は馬が家族の一員として大切にされていた頃のお話です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


   篠原うめ 著

 いつの頃だったか、里へ行った時のことで甥との会話の中で「叔母さん、若し此の家を物置か畜舎にするとしたらどう思う」と問われて、一瞬ええっと、とても淋しい思いが走った。子どもの頃から背伸びして拭いた大黒柱や高めの上り框、視界の物が皆懐かしく感じられた。
 其の後、生家は昔のままの外形で中を改造して今大家族の生活が続けられている。

 私が子ども頃、馬は農家の暮しの大きな担い手で、家族と同じ屋根の下に飼われていた。
 特に父は根っからの馬好きで、馬をいつも人間と同じ様に扱っていた。いや時にはそれを越える双方の通い合いがあったのかもしれない。そのためか家中して動物を愛する心は共通していた。

 春になるとあちこちに馬のお産があり、父は頼まれて素人獣医の様に出掛けていった。そして思わぬ時に、お祝いの赤飯が届いた。
 家でもずっと馬の仔とりは続けていた。お産の時、親馬の背はびっしょり濡れ、体から湯気が立ちのぼっていた。やがて生れた仔馬を親が優しく舐めつくすと、仔馬はそれに答えるように立ち上がる格好をするが、よろけてしゃがみ込む。そんな仕草を数回くり返すと、よろよろと四肢で立つことができた。それを見て手を叩いて喜んだ。

 やがて田の代掻きの季節が来ると、初めて仔馬は親と離れて小屋に残される。親馬を外へ引き出すと急いで大戸を締めて家の中を暗くするが、仔馬は小屋の中をさまよいながら悲鳴を上げる。田んぼが近いので、暫く親仔の啼き合いが続く。そのとき母は仔馬の連れになって、なだめながら洗濯をしていた。

 夏も過ぎて秋も深まる頃、成長した仔馬を売りに出す。馬市が原町の河川敷で開かれた。きれいに磨かれた仔馬を撫でながら、だいじにしてくれる人に飼ってもらえる様にと送り出した。
 日暮れになって、はるか遠くの方から仔馬を呼ぶ親馬の啼き声が聞こえてくる。ふり返りふり返りながら足取りの乱れる馬を連れて父と兄が帰って来ると、先ず仔馬はどんな人に買われたのかを聞いた。それには、大きく育てて農耕馬に使うとか、次の市場へ出す人とか、年々に一様ではなかった。或る年には一旦仔馬を家へ連れ帰って、二~三日してから高崎の大類村の買い主まで父と兄とで、送り届けに行ったこともあった。そんな時仔馬にとっては生まれて初めての長旅だが、まさか帰りのない旅などと知る由もなく、あどけなさで親に付いて行ったのだろう。父はよく馬は人間よりも利口と言っていたから、手綱を取られていく親馬の意中には悟られて居たのかも知れない。
 その頃農家の不定の収入の中で、仔馬を売った代金はかなり貴重な高額だったと思った。そして暫くは仔を呼ぶ親馬のいな啼きが続いた。

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 父は農業の合間に好きな馬を使って、炭や薪などを運ぶ駄賃付けをした。伊勢町の菓子屋から、高山村までの街道の商店へ、菓子や砂糖の缶を運んだりもして、仕事のおかげで菓子屋さんから色々なお菓子を戴いて来てくれたことが思い出される。

 正月十四日は、馬の年取りと言って、夕方馬屋の前に茣蓙を敷き、荷鞍を据えて其の前に、うどんやご馳走をお膳にのせて供えた。しばらくしてから、飼い葉桶にあけて、馬に食べさせた。そのあと一月十八日は、馬頭観音まつりで、父は馬に朝給餌をすませて、たてがみから全身爪の先まで、ピカピカに磨き上げて、乗鞍に跨り、速歩と言う軽い馳りで、尻高の観音様へ安全祈願のお参りに出かけた。

 春になると「満州娘」の唄の歌詞の様に結婚のシーズンで、花嫁さんの荷物運びも頼まれた。中間(ちゅうげん)役者などと言われた様な気がする。時には馬の両脇に箪笥を付けて、その上に江戸褄の花嫁さんを横向きに乗せて、ゆらりゆらりと迎えてきた。今振り返ると、いとものどかな絵になる風景が浮かんでくる。
 その時使った荷鞍は、特注らしく鞍の厚みの部分の前後には、金糸銀糸や赤黄をあしらった綺麗な模様がついていた。大切に保管して置いたあの鞍は今どこにあるのだろうか。そんな仕事の関係もあってか、父はずーと何時でも丈夫で容姿のよい馬ばかりを買って大事に飼っていた。それは私たち子どもが見ても本当に格好よかった。

 一生懸命働いてくれた馬にも組替の時がやてくると、母は早起きをして、馬の好物のうどんを食べさせたり、茹湯を飲ませ、みんなで人参などを食べさせた。そして送り出す時、鍋の蓋を裏返して其の上に一掴みの塩をのせ、馬に舐めさせた様な、うろ覚えがある。多分、それから先の馬の安全を願う習わしだったのかも知れない。
 居合わせた誰の目からも光るものがこぼれた。

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☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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2007年2月19日 (月)

小栗上野介 ~倉渕に眠る幕末の偉人~

安中市松井田町の木馬瀬(ちませ)の福寿草自生地にも伝わっている埋蔵金伝説。各地に残る幕府軍用金の埋蔵金伝説の主役、小栗上野介(小栗忠順)のお墓は高崎市倉渕町権田にあります。木馬瀬で福寿草を見たあと、訪ねてみることにしました。

木馬瀬から、倉渕方面へ県道を道なりに行くと、地蔵峠。峠を越えてさらに走ると、国道406号線につきあたります。その正面にあるお寺が、小栗上野介が眠る「東善寺」です。

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小栗上野介は、当時の大老井伊直弼に、まれにみる逸材と認められ、万延元年(1860)34歳の時に日米修好通商条約批准のため、米艦ポーハタン号で渡米、地球を一周して帰国。その後、幕府の要職を歴任し、数々の業績を残しました。

慶応3年(1867)の大政奉還、鳥羽伏見の戦いと続く幕末の動乱の中で、江戸城内では主戦派と恭順派の意見が割れていました。小栗上野介を無謀な主戦派というのはあたりません。彼には勝算のある作戦がありました。しかし、慶応4年1月に将軍慶喜の面前で開かれた大評定では、主戦論は受け入られず、小栗は勘定奉行を罷免されてしまいます。

一線を退いた小栗はわずか30名ほどの家臣を連れて、同年3月1日に知行地の一つであった上州権田村(高崎市倉渕町権田)へ土着します。その数日後、千人もの暴徒が権田村を襲いますが、小栗と家臣はこれを撃退。以後、教育や水田整備など村人のために熱心な活動をおこない、平穏に暮らしていました。

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ところが、権田村で暮らし始めてから、わずか2月後、小栗上野介は西軍に無実の罪を着せられ、捕らえられます。そして何の取り調べもないまま、烏川の水沼河原で斬殺されてしまいます。
この時、小栗は数え42歳。“日本の近代化の父”とも称される幕末の偉人は、烏川の露と消えていきました・・・・・

(小栗上野介忠順については、あまりにも話がたくさんありすぎて、ここには書ききれません。もう少し勉強してから、再度、紹介したいと思います。)

小栗忠順(Wikipedia)

小栗上野介(旧倉渕村教育委員会)

小栗上野介連続講座(群馬県HP)

東善寺HP

【おまけ】
木馬瀬から倉渕の「東善寺」へ向かう途中で道路を横断していたサルに遭遇。車を降りてカメラを向けても慌てる風もなく悠々と畑を通り、山の方へ歩いていきました。周囲に人家もある場所だったので、ちょっとびっくり。

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2007年2月23日 (金)

甲波宿禰神社(東吾妻町箱島)

東吾妻町箱島、箱島養鱒センターの近所にある『甲波宿禰(かわすくね)神社』は箱島地区の氏神様として地域の人たちから大切にされています。
「甲波(かわ)」は“川”、「宿禰(すくね)」は“直根”→“本流”を意味し、川を畏れ、信仰することから祀られていると考えられています。

私は川や魚に関係する仕事をしていて、しかも箱島地区に勤務していながら、この神社にはこれまでお参りしたことがありませんでした。これは大変なことです。ご挨拶に伺わなくてはなりません。

で、遅ればせながら、一昨日の昼休みに甲波宿禰神社に行ってきました。

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創建は延暦四年(785年)。早良親王の謀反に組したためこの地に流されたという小野金善が、現在の渋川市川島に鎮座している延喜式上野十二社の一つ甲波宿禰神社から勧請したと伝えられています。
祭神は、速秋津比古(ハヤアキツヒコ)命、速秋津比咩(ハヤアキツヒメ)命 です。

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境内には、ケヤキやコナラの大木が社殿を守るように何本も生え、なにやら神秘的なものを感じます。それらの大木の中でも、特に大きい樹齢700年と推定されるケヤキの巨木は東吾妻町の天然記念物に指定されており、御神木として信仰されています。

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この近くにある渋川市祖母島の竹内神社も元来は甲波宿禰神社とみられ、吾妻川右岸の渋川市金島、祖母島、東吾妻町箱島に3社が並んでいます。古来から大きな自然災害をもたらしてきた吾妻川に対して人々は大きな畏敬の念をいだいていたのでしょう。

また、箱島の甲波宿禰神社は、群馬県人口が200万人に達したのを記念して作られた小栗康平監督の映画『眠る男』のロケ地の一つで、能舞台のシーンが撮影されました。

ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ (Wikipedia)

映画『眠る男』についてはこちら
 ■群馬県HP
  ■小栗康平オフィシャルサイト

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2007年3月 1日 (木)

佐野の舟橋(高崎市上佐野町)

現在、私は前橋に住んでいますが、生まれ育ったのは高崎市の上佐野町というところです。先日、実家の近所の史跡を訪ねてみました。

「佐野」という地名は地元を除き群馬県民にもあまり知られていないと思いますが、「佐野」の名は681年に建てられた「山ノ上碑」にも記されている古い地名で、「万葉集」の東歌にも多く登場します。平安以降の和歌にも多く詠まれ、「佐野」は、古典文学の世界においては群馬で最も知られていた地名でした。現在、高崎市には上佐野・下佐野・佐野窪の3つの地名に佐野の名が残っています。

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上佐野町の烏川を渡る上信電鉄鉄橋のすぐ下に「佐野橋」という木製の橋が架かっています。私が子どもの頃の佐野橋は欄干もなく、渡るのがちょっと怖いくらいの華奢な橋で、台風の大水で毎年のように流されていました。
この橋の北東側の崖上に「佐野の舟橋歌碑」があります。

この碑は文政10年(1827)に高崎市あら町にある延養寺の住職良翁が建てたものです。碑文は見にくいですが万葉集の東歌が刻んであります。

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「かみつけの佐野の船はしとりはなし 親はさくれどわはさかるがへ」

舟橋とは、舟をたくさん並べ板を渡して橋にしたものです。この舟橋には悲しい話が伝わっています。
昔、烏川をはさんで二つの村があり、それぞれの村の長者には息子と娘がいた。、二人はいつしか恋仲となり、夜に舟橋を渡って逢瀬を重ねるようになった。それを知った親が、ある日二人が会うことが出来ないように舟橋のまん中の橋板を外しておいた。
真っ暗な夜のこと、足元はぜんぜん見えない。何も知らない二人はいつものように舟橋を渡ろうとした。
翌朝、しっかりと抱き合った二人の遺体が川で発見された・・・・。

この歌碑はその二人の怨霊を慰めるために、建てられたとも言われています。

佐野の舟橋歌碑(高崎市HP)

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2007年3月 2日 (金)

定家神社 & 常世神社

高崎市佐野地区の史跡巡り(その2)。

佐野の舟橋歌碑」から道なりに下佐野町に進むと新幹線の高架をくぐったところに「定家(ていか)神社」があります。地元では「定家さま」と呼ばれています。
「定家神社」は『新古今集』の編者・藤原定家をお祀りする神社です。定家の血を引く民部卿為茂による「定家大明神之縁起」(元禄7年、1694)によると、定家が東国行脚の折、佐野の松原に草庵を結び、しばらく住んだ後、持仏の観音菩薩を村人に贈り、京へ帰った。村人達は定家を慕い、草庵を堂として、観音像を安置して信仰したとされています。

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この神社にまつわる面白い“まじない”があります。
半紙に「こぬひとを まつほのうらのゆうなぎに やくやもしほの みもこがれつつ」と書いて定家神社の木戸に貼っておくと、3日以内に失せ物が見つかるというものです。
子どもの頃のことで定かではないのですが、なにかが書かれた半紙が社殿の扉に貼ってあった記憶があります。今回訪れたときには何も張ってありませんでしたが。

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小学生だった頃、境内には、樹液を出す大きな木(多分クヌギだったのだろうと思いますが)があり、夏休みにはラジオ体操に行く前に自転車を飛ばして、ここでカブトムシ捕りするのが日課でした。その木は、もうありませんでした。少し寂しい・・・・。

 ☆  ☆  ☆

定家神社から新幹線高架沿いに少し北の方に行くと高架の反対側に「常世(つねよ)神社」があります。
「常世神社」は、謡曲「鉢木(はちのき)」に登場する鎌倉時代の武士、「佐野源左衛門常世」を祀っています。

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大雪の夜、身分を隠し旅僧姿の鎌倉幕府執権・北条時頼が、佐野源左衛門常世のもとに宿を求めました。常世は一族により所領を横領され貧しく、薪にも苦労していたのですが、大事にしていた鉢の木(梅、松、桜)を焚いて旅僧に暖をとらました。
常世は旅僧に「今はこんなに落ちぶれているが、“鎌倉”に急あれば、すぐにも馳せ参じ、合戦ともなればまっ先に敵に立ち向かう」と心の内を語りました。
それからしばらくして、各地の武士に鎌倉から招集がかかります。常世は「いざ、鎌倉!」と、やせ馬に跨り、古びた鎧姿で鎌倉に駆けつけました。
語った言葉通りに鎌倉に馳せ参じた常世に対して時頼は、奪われた所領を戻し、さらに薪にした鉢木の梅、松、桜に因んだ地名の3カ所の領地を新たに与えました。
以上が、謡曲「鉢木」のあらすじです。

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「常世神社」は佐野源左衛門常世の屋敷跡とされていますが、鎌倉時代に佐野源左衛門常世という御家人がいたという記録は残っていません。
でも、「鉢木」と「常世」は私には、とても親しみがあります。
私が通っていた保育所の名前は「鉢木保育所」、中学校の校歌にも「鉢木」に関する歌詞がありました。
佐野中出身者の方、さぁ、ご一緒にぃ~  (^^)
 ♪物語 佐野の鉢木 色も香も 梅、松、桜

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久しぶりに子どもの頃に行った懐かしい場所を訪ねてみました。三十年前と変わらない風景、大きく変わった風景が混在していました。
生まれ育った場所から遠く離れて住んでいるわけではないのですが、時間という距離は遠く離れてしまったなぁと感慨にふけった私でございました。

定家神社社宝(高崎市HP)

群馬県立女子大学「群馬学ことはじめ」
 ■中世歌人と神社
 ■「鉢木」の舞台 佐野

まっぷdeたかさき (高崎市地図情報提供サービス)

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2007年3月 3日 (土)

ひな祭り

今日は楽しいひな祭り~♪ ですね。
我が家も雛人形を飾り、桃の節句のお祝いです。

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ひな祭りは五節句の一つ。五節句(五節供)とは中国の古い暦の節が特定の年中行事をさすようになり日本に伝わり、江戸時代に一般に広まったものです。(正月七日-人日、三月三日-上巳、五月五日-端午、七月七日-七夕、九月九日-重陽)

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ひな祭りは元々は平安期の人形(ひとがた)に災いを身代わりになって引き受けさせ、水に流す儀式が始まりですが、江戸時代頃から綺麗な人形を飾って愛でる、現在のひな祭りの形態になってきたようです。
いずれにしても、女の子の幸せや健康を願う行事にはかわりありません。
我が家の二人の娘がこれからも“元気で健康”に育って欲しいいう親の願いを込めたひな祭りです。

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今日と明日の“伊香保の石段ひな祭り”や、安中市松井田町の“五料の茶屋本陣”、群馬の森“県立歴史博物館”の「ひな人形展」など、県内各地でひな祭りにちなんだイベントや展示が行われています。
有名な“乙父(おっち)のおひながゆ”は月遅れの4月3日(火)に 上野村乙父地区の神流川の川原で行われます。

今年もお手製の桜餅♪ 見た目は和菓子屋さんの桜餅にかないませんが、味はイイ勝負です。

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伊香保づくし (伊香保温泉情報)

五料の茶屋本陣のひな人形展(県HPウェブフォトニュース)

県立歴史博物館HP 季節展示「春の訪れ-おひなさま-」

上野村HP

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2007年3月21日 (水)

佐久発電所のサージタンク

渋川市街から利根川の対岸を眺めると、赤城山をバックにそびえ立つ、高さ75m・内径12.5mの「佐久発電所サージタンク」。渋川市北橘町(旧北橘村)にあるこの“塔”は渋川市のシンボルの一つです。

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「佐久発電所」は実業家の浅野総一郎氏が経営する「関東水力電気会社」によって建設された調整池式発電所です。発電所の名前は「‘佐久’発電所」ですが、ここの地名は「佐久」ではありません。浅野氏とともに苦労をともにしてきた奥様の名前が「作」といい、作さんの雅号「佐久」に因み、発電所の名称を「佐久発電所」と命名しました。
作さんは発電所の竣工を待たずして亡くなられました。この発電所の命名は、浅沼氏の糟糠の妻、作さんへの深い愛情を感じますね。

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昭和3年の完成当時の利根川の水を使った発電出力は33,600キロワット。信濃川発電所が竣工するまでの約10年間、東洋一の発電規模を誇りました。昭和13年には吾妻川の水を利用する水車と発電機が増設されて出力72,700キロワットに達しました。
その後、昭和16年に電力の国家管理で日本発送電(株)に資本統合、昭和25年には東京電力に引き継がれ、昭和60~63年の改造工事で発電出力76,800キロワットとなり、現在に至っています。
サージタンクも昭和60~63年の改造工事で更新され、現在のサージタンクは2代目です。

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佐久発電所の導水管の周辺は桜(ソメイヨシノ)の名所になっていて、例年4月上旬から中旬に見頃を迎えます。サージタンク、導水管を彩る満開の桜はみごとなものです。

技術のわくわく探検記 佐久発電所

佐久発電所の桜(渋川市役所)

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2007年3月24日 (土)

「岩宿の里」のカタクリ(みどり市笠懸町)

『みどり市』は平成18年3月に新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村が合併し、群馬県では48年ぶり誕生した新しい市。みどり市ができたことで群馬県の市の数は12になりました。

みどり市笠懸町にある「岩宿の里」では、毎年3月下旬から4月初旬にかけて、稲荷山の北斜面約2.4ヘクタールに自生するカタクリの花が見頃となります。

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カタクリは、明るい落葉広葉樹林の林床に群生し、早春に下を向いた赤紫色の可憐な花を咲かせます。“スプリング・エフェメラル”の代表格ですね。
早春の3~4月のみ地上にあらわれ、5月上旬頃には葉や茎は枯れてしまいます。種子にはアリが好むエライオソームという物質が含まれ、アリが種子を巣へ運び込むことによって分散されます。
カタクリはこのように、人が管理する里山とそこにすむ虫と連携することによって繁栄してきましたが、里山が荒れ、さらには盗掘などで、最近ではめっきり減少してしまいました。我々は、生活の“便利さ、快適さ、効率性”と引き替えに多くのものを失ってきたのですね・・・。これからも失い続けるのでしょうか?

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アズマイチゲもカタクリと同じ環境を好むスプリング・エフェメラルです。花弁に見えるのはすべてがく片です。
真っ白に群生しているアズマイチゲはとてもきれいでした。

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岩宿の里は、日本の歴史を大きく書き換えた『岩宿遺跡』のある場所です。
岩宿遺跡の碑のある場所に行ってみると、在来種のカントウタンポポがひっそりと咲いていました。そして、スミレもたくさん咲いていました。何故か、岩宿遺跡発見者の相澤忠洋氏に出会えたような気がしました・・・。

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カタクリさくらまつり開花情報(みどり市HP)

岩宿博物館HP

スプリング・エフェメラル(Wikipedia)

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2007年4月28日 (土)

満開! 白井宿の八重桜 (渋川市白井)

渋川市白井(旧子持村白井)にある白井宿は鎌倉時代から白井城の城下町として栄え、廃城後も六斎市の市場町として、さらに前橋、渋川、沼田、中之条の中間点という交通の要衝であることから三国街道の宿場町的存在として繁栄しました。
通りの中央に流れる白井堰、八つのつるべ井戸、土蔵造りの家、石の道標などが当時の様子をしのばせます。
白井堰の両脇に900mにわたって植えられている八重桜が今、満開です。

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ソメイヨシノ至上主義者の私ですが、白井宿の八重桜は見事だな~と思いました。白井堰や町並みともマッチして、とても雰囲気のある風景になっています。

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八重桜はソメイヨシノなどよりも花の持ちがよいので、もうしばらく楽しめるでしょう。

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明日4月29日(日)の『白井宿八重ざくら祭り』では、武者行列や六斎市(特産品や手芸品等の販売、おやき、そば、うどんの飲食店等)などが催されます。満開の八重桜で染まった白井宿を練り歩く武者行列は見ごたえがあるでしょうね。

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駐車場は「道の駅こもち」が利用できます。

桜 さく -2007・白井宿-(しぶかわお宝調査団)

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2007年5月 4日 (金)

敷島浄水場のツツジ (前橋市敷島町)

前橋市敷島町にある「敷島浄水場」では、毎年5月3日~5日の連休中に一般開放しています。ちょうど、この時期はツツジの季節。場内には40種類、370本のツツジが植えられており、ツツジの花を目当てに大勢の人が訪れます。

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敷島浄水場は昭和4年にできた前橋市の水道発祥の地です。
近代水道百選に数えられ、文化庁登録有形文化財にもなっている配水塔は当時のもので、今でも現役です。
鉄骨造、高さ37.4m、容量892.5立米。「水道タンク」の愛称で親しまれる前橋のシンボルの一つです。

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肝心な花の方は、残念ながら今年は花つきが悪く、ちょっと寂しい感じでした。
前橋市水道局のキャラクター「タンク君」も謝っていました。来年に期待しましょう。

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今朝の読売新聞群馬版より↓
『今年の花は例年より少なめ。浄水施設だけに稼働中は害虫駆除の消毒が出来ないが、昨年は施設の一部に落雷などのトラブルがあり、施設がフル稼働し、消毒があまりできなかったためという。同市の青木伸行浄水課長は、「全国都市緑化ぐんまフェアが開かれる来年はきれいに咲かせたい」と話していた。』

敷島浄水場開放(前橋市)

前橋市水道局

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2007年5月17日 (木)

「幕末の写真師夫妻 島霞谷と島隆」展 (群馬県立歴史博物館)

高崎市の「群馬の森」にある県立歴史博物館では6月3日まで企画展「幕末の写真師夫妻 島霞谷と島隆」を開催中です。

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島霞谷(かこく)(1827~1870年)は幕府の洋学教育機関「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」勤務などを経て、写真、油絵などで才能を発揮、日本初の金属活字を製作するなど、多才な人物で「和製ダビンチ」とも称されています。

その妻、隆(りゅう)は、1823(文政6)年、現在の桐生市に生まれた日本初の女性写真家です。
18歳の頃、一橋家の祐筆(秘書)になるため江戸に上り、そこで島霞谷と知り合い、32歳で結婚。霞谷から写真術を習いました。
霞谷は残念なことに若くして亡くなられましたが、隆は夫の死後、故郷の桐生で写真館を開業しました。

今回の企画展では、島家から寄託された約2,000点の資料の中から写真や油絵など130点が展示されています。

島霞谷と島隆については、今回の企画展で初めて知りました。
展示品の数々を見て、芸術家、技術者としての島霞谷の才能にはもちろん感心しましたが、幕末から明治に群馬県出身の島隆が日本初の女性写真家として活躍していたということには驚かされました。

群馬県立歴史博物館

おまけ
群馬の森の入り口にあったトチノキの花

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例年ですと敷島公園のばら園も見頃を迎える頃ですが、ばら園は平成20年3月末まで閉園中です。

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2007年7月26日 (木)

上野総社神社と道祖神

前橋市元総社町に鎮座する『上野総社神社』。

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上野総社神社は崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国平定のために上野国(今の群馬県)にお下りになった時に経津主命を祀ったが始まりとされ、清和天皇のころに国司が上野国内の549社を勧請合祀し、社号が総社大明神と改称されました。

総社神社の「総社」とは、地域内の神社の神を集めて祀った神社のことです。古代日本の国司にとって、着任後最初の仕事は国内の全ての神社を巡って参拝することでしたが、平安時代になると国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが広まったのだそうです。
つまり、上野総社神社は群馬県内の神社を祀っているので参拝すれば県内の神社を参拝したことになる訳ですね。

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本殿の裏手にはたくさんの道祖神がありました。多分、周辺にあった道祖神をここに集めたものだと思います。

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道祖神は境の神。外界から集落に侵入する悪魔を遮り、斥けようとするもので「セイノカミ、サエノカミ(塞の神)」とも呼ばれます。また、‘旅人の安全を見守る神’、‘道の神’でもあります。

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道祖神のなかでも、男女の双神像の双体道祖神の姿は微笑ましく、見る人の心を和ませてくれます。双体道祖神といえば信州がよく知られていますが、群馬県も双体道祖神が多い地域です。

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高崎市の旧倉渕村など県西部に特に数多くの双体道祖神が分布しています。

上野国総社神社

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2007年8月23日 (木)

古墳とひまわり畑 はにわの里公園(高崎市)

高崎市の『上毛野はにわの里公園』(井出町・保渡田町)は広さ12.9ヘクタールの歴史公園。園内には、国指定史跡の保渡田古墳群、かみつけの里博物館、土屋文明記念文学館などがあります。

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保渡田古墳群の八幡塚古墳は墳丘の全長96mの大型の前方後円墳。周囲には二重の堀をめぐらし、墓域の長さは約190mに及びます。発掘調査に基づき1500年前の姿が復元されています。現在、多くの古墳は雑木林の小山になっていますが、造成当時は葺石に覆われ、周囲を埴輪が取り囲み、威風堂々たる姿をしていたのですね。朝日や夕陽に照らされて輝く墳丘は人々に畏敬の念をいだかせたことでしょう。

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後円部内には舟形石棺の実物が展示されています。

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八幡塚古墳と道を挟んで西隣にヒマワリ畑があります。このヒマワリは地域に人たちと上郊小学校の児童が育てました。

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ひまわり畑は迷路になっています。

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2007年10月22日 (月)

大前田の獅子舞 (前橋市大前田町)

前橋市大前田町に300年以上前から伝わる伝統の獅子舞が昨日の日曜日に開催された大前田諏訪神社の秋祭りで奉納されました。(9月に紹介した芙蓉街道のそばです)

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江戸時代より受け継がれる獅子舞は一人立ちの三頭の舞で、獅子はそれぞれ「父」「母」「息子」獅子と呼ばれ、付人は「ひょっとこ」と「おかめ」です。

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獅子と付人は時に激しく、時にユーモラスに舞い踊ります。

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黒漆塗りの獅子頭は「父」と「息子」。

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「母」の獅子頭は朱漆塗りです。

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寛政11年の大旱魃のときには、獅子舞で雨乞いをしたところ雨が降り出したと伝えられています。また、疫病が流行ったときには、村中の毎戸をまわって悪疫退散を行ったということです。

「五穀豊穣」「天下泰平」「家内安全」等と書かれた短冊で飾られた万燈は獅子舞の終了を合図に観客が短冊を奪い合います。縁起物だそうです。

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300年以上も途絶えることなく受け継がれてきた伝統の獅子舞。地域の文化をしっかりと守り伝えている大前田地区の皆さんに拍手。

大前田諏訪神社の獅子舞

赤城南麓交流村(前橋市宮城地区の情報満載)

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2007年11月 5日 (月)

赤城型民家 旧関根家住宅 (前橋市・大室公園)

大室公園の民家園にある『旧関根家住宅』(市重文)。
前橋市飯土井町の民家を移築復元したものです。

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江戸末期に建てられたと推定されるこの民家は典型的な養蚕農家の形で、赤城南麓に多く見られたことから『赤城型民家』と呼ばれている様式です。(「ぐんま昆虫の森」にある民家もこの形です)

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屋根の前面の中央部を逆凹型に切り落とした形が赤城型民家の特徴です。この屋根の形は屋根裏で養蚕を行うために採光と通風を確保するのが目的です。

養蚕に使われた2階(ニケエ)

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養蚕を行わない冬には農作物の貯蔵にも用いられました。

屋根裏には「ダイドコ」から立ち上った煙がたちこめていました。

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手前の部屋が「オモテザシキ」。奥は「コザ」。

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来客や冠婚葬祭の際に使われる“社交区間”です。

「県都まえばし糸のまち」を支えていたのは、こういう農家だったんですね。

大室公園民家園

こちらも参考に
赤城型民家 思い出の家守りたい(私の中のシルクカントリー)

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2007年12月 3日 (月)

善勝寺 (前橋市端気町)

前橋市端気町にある「善勝寺」は、平安時代初期に上野国(群馬県)の講師(こうじ)となった勝道上人の草創と伝わる天台宗の古刹です。

横を通りがかったら、色づいたカエデが見えたのでちょこっと立ち寄ってみました。

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この寺の御本尊は国の重要文化財になっている「鉄造阿弥陀如来坐像」。仁治4年(1243)に造られ、頭部と‘上品下生(じょうぼんけしょう)’の定印を結ぶ手部を除き、鉄製の珍しい仏像です。東日本の鉄仏の中でも最も美しい仏像の一つといわれています。
残念ながら普段は拝観することができないようです。“久遠の微笑み”といわれるそのお姿を是非一度、間近に拝見したいと思っているのですが。

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上細井町の前橋市立高校の北東に「鎌倉坂」と呼ばれる坂道があります。
この坂と善勝寺にまつわる伝説が残っています。

『あるとき、身を墨染めの衣に包んだ僧侶が善勝寺を訪れた。住職はこの僧が北条時頼であるとは知らず、庫裡に招き入れた。この時、旅の僧は、庭先の桜に目をやったかと思うと、「これは珍しい、ここに塩釜桜があったとは」と言った。一目でこの桜が塩釜桜だとわかった時頼は、海も磯もないこの山中になぜ塩釜桜があったのか不思議で、こんな歌を作って住職に進呈した。

 「海もなく磯べも遠きこの里に何れのあまが植えし塩釜」

 寺を辞した僧が時頼であったことを知った住職は、小僧に言い付け、引き返してもらうよう後を追わせた。今の鎌倉坂のところで、小僧は追いついたが、時頼は「もう鎌倉に着いた。帰るには及ばない」と言って、船で利根川を渡っていったという。
 このことから、この坂を鎌倉坂というようになった。』

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現在、鎌倉坂と利根川は距離が離れていますが、この当時、利根川は鎌倉坂の近くを流れていました。

昔の利根川は洪水などで何度も流れを変える“暴れ川”でした。
鎌倉坂の近くに“鳶石”と呼ばれている石があり、舟を繋ぎ止めておいたと伝えられています。また、中心市街地の馬場川わきにも“船つなぎ石”と呼ばれる石があります。

この「鳶石」と「船つなぎ石」の間が「古利根川」が変流してつくった「広瀬川低地」です。現在の広瀬川、桃ノ木川は昔は利根川だったのです。

善勝寺 (じゃらんnet)

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2007年12月 4日 (火)

関東の華 ~前橋城~

群馬の県庁所在地「前橋」の旧名は「厩橋(まやばし)」。
この地に長野氏が「厩橋城」(元禄年間に「前橋城」と改称)を築いたのは15世紀末のことです。

戦略上重要な地にあった厩橋城の主はその後、目まぐるしく替わります。

戦国時代には上杉謙信の関東進出の拠点とされましたが、謙信の死後は武田勝頼が支配。武田氏滅亡後は織田信長により滝川一益の与えられました。
信長の死後、小田原の北条氏が支配しましたが、豊臣秀吉の北条攻めの後、関東が徳川家康に与えられると家康の家臣平岩親吉が入城しました。

関ヶ原の戦いの後、家康は親吉を甲府に移し、川越の酒井重忠に3万3千石を与え、厩橋城主としました。
このとき、家康が重忠にこう言ったと伝えられています

『汝に“関東の華”をとらす』

宇都宮城(栃木県)、忍城、川越城(埼玉県)と並び『関東四名城』に数えられる前橋城。しかし当時の姿を伝える遺構はほとんど残っていません。

本丸跡に建つ県庁。

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その周辺には土塁が残っています。

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大手町2丁目の日経新聞前橋支局の裏にある「前橋城車橋門跡」。

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石垣と石垣の間が狭いと感じますが、区画整理のために移動したからです。元はこれよりも8m広かったそうです。

酒井氏が9代150年にわたって城主をつとめた後、松平氏が入城しました。しかし、利根川の洪水により、城の浸食が進んだため、明和4年(1767年)城主は川越に移ってしまいました。

前橋は99年間廃城の状態が続きましたが、慶応3年(1868年)に城が再建され、松平氏が再び前橋城に戻りましたが、間もなく明治維新を迎えました。
前橋城の再建にあたっては、生糸貿易で潤った領民の献金や、労働奉仕も行われたということです。

関東の華「前橋城」(「好きです前橋」第6号1997年7月発行)

“関東の華”と称された前橋城の姿を見ることは今ではできませんが、『関東の華』という美味しい地酒があります(^^)
聖酒蔵HP

そういえば、前橋城が利根川の流れによって崩れたのは“お虎”の怨念という伝説もありましたっけ。

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今日の冷たい北風に吹かれて散ったイチョウの葉

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冬が来たなぁ

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2007年12月27日 (木)

冬の敷島公園 ~お艶が岩~

今日は、風もなく穏やかな日だったので昼休みに敷島公園を散歩。

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ボート池は冬季休業中。オナガガモやカルガモがいました。

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ボート池と道を隔てて南側にある池には、赤みを帯びた大きな岩があり、「お艶が岩(おえんがいわ)」と名付けられています。
昨年紹介した「岩神の飛石」に似た感じの岩です。
約20万年前に起こった赤城山の大爆発で山頂部が崩壊した際に崩れた岩の一部と言われています。

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見るからに、伝説がありそうな雰囲気の岩です。
「お艶」は女性の名前、多分悲恋の話だろうと容易に想像できますが、そのとおり。
『その昔、お艶という美しい娘が、利根川の対岸に住む青年に恋をした。
はじめは川を越えて会いに来ていた青年だが、次第に熱が冷めてついには姿を現さなくなってしまった。
お艶はこれを悲しみ、この岩から恋人の名を呼びつつ身を投げた』
という話が伝わっています。

そして、もう一つ、この岩にまつわる驚くような伝説があります。
この岩のある池の畔に建つ「お艶観音」の横に、その伝説を刻んだ石碑があります。

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『この〝お艶が岩〟には、こんな話が伝えられています。
「お艶とは」、実は〝淀君〟だったということです。淀君といえば豊臣秀吉の側室で、慶長二十年(一六一五)大阪夏の陣に際し、わが子秀頼とともに大阪城の天守閣で炎の中、自刃したと伝えられています。
ところが、対岸にある元景寺に伝わる話によりますと、淀君は、大阪夏の陣に出陣した総社城主秋元長朝の陣に助けを求めてきました。
長朝は、淀君を篭に乗せ木曽路を通り総社に帰りました。
もちろん当時、淀君をかくまったとあっては、たいへんなことですから、〝大橋の局御縁〟と呼んでいました。
その後、幾星霜、この城でなに不自由なく過ごしていた淀君でしたが、過去の悲哀に耐えきれず、遂には世をはかなんで、この岩の上から利根の激流に身を投じたといいます。
この〝御縁〟が語りつがれていくうちにいつしか〝お艶〟にかわり、だれいうことなく、この岩を〝お艶が岩〟と呼ぶようになったいうことです。
総社の元景寺には、〝淀君の墓〟といわれるお墓があり、淀君が使ったという、お篭も残っています。』

両方の伝説とも利根川対岸の総社地区と関連しているのも興味深いことです。
前橋の淀君のお墓にも今度行ってみよう。

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おまけ

集合!

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整列!

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ムクドリ軍団

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2008年1月 2日 (水)

初詣そして上毛かるた ~ぐんまの正しいお正月~

我が家では元日に前橋市下大屋町の「産泰神社」(産泰さま)へ家族揃って初詣に行くのが恒例となっています。
安産と子育てにご利益のある産泰神社の主祭神は木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)。 木花佐久夜毘売命といえば、サクラの語源になったという説もある神様ですね。

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この神社には奥さんが長女を身籠もったときの安産祈願以来、ずっとお世話になっており、今でも子供たちの健康と家内安全をお願いしています。

社殿は西を向いています。産泰神社は前橋藩主酒井氏の尊祟が篤かったことから、前橋城を守護するために城のある方角に向けて社殿を建立したからだと言われています。

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さて、ぐんまのお正月といえば『上毛かるた』。60年以上の伝統のある郷土カルタです。

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小学6年生の長女と対戦しましたが、全く歯が立ちません。何度やっても大差をつけられてしまいます。
次に小学3年生の次女と対戦。
昨年までは手加減して2回に1回くらいわざと負けてやっていました。今年も対戦前には「ハンデつけてやるよ(^^)」なんて言っていたのですが、実際にやってみるとハンデどころじゃありません。真剣にやっても5回に1回くらいしか勝てません(^^;)
う~ん、やはり現役小学生は強い・・・

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“ち”の札が「力合わせる170万」だったり「180万」だったりした皆さま、お子さんたちに勝てますか?

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2008年1月 5日 (土)

水沢観音

お正月は神社仏閣ネタが多くなります・・・
今日は伊香保温泉に近い水沢観音にお参りに行ってきました。

坂東三十三観音霊場の第十六番札所、五徳山水澤寺。「水沢観音」の名で親しまれ、広く信仰されているこのお寺は、推古天皇・持統天皇の勅願により開基されたと伝えられる天台宗の古刹。ご本尊は七難即滅七福即生のご利益があるという十一面千手観世音菩薩です。

仁王門

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本堂

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私は何度か来たことがありますが、家族揃ってのお参りは初めてです。さすがに有名なお寺だけあって今日もたくさんの参拝者が訪れていました。

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本堂に向かって右手にある二重の塔が「六角堂」。(県重要文化財)

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六角堂の内部には1階部分に地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界の六道を守る地蔵尊が祀られ、二階部分には大日如来が鎮座しています。そして、六地蔵尊が安置されている部分が回転するという面白い構造になっています。

お地蔵様が廻ります

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地元の氏神様、産泰神社、水沢観音と3カ所の神様、仏様にお参りした今年のお正月。きっと良い年になるはずでございます・・・。

水沢観音HP

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渋川市総合公園から眺めた赤城山

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2008年1月 9日 (水)

縁起だるま

高崎少林山のだるま市をはじめとして、各地で新春のだるま市が開催されています。
今日は前橋のだるま市「前橋初市」でした。

私は行かなかったのですが、子供たちは学校から帰るとすぐに前橋初市に行き、ちっちゃなだるまを買ってきました。

両目の入った去年のだるま。まだ目の入っていない今年のだるま。

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子供たちはどんな願いを込めて目を入れるのかなぁ?
今年も子供たちを見守っていて下さいね、だるまさん。

全国の縁起だるまの8割を占める高崎だるま。
年の初めに家内安全、商売繁盛、志望校合格等々、様々な願いをかけながら片目に墨を入れ、願いが叶ったり平穏無事に一年を過ごせたら、感謝の気持ちでもう片方の目入れます。
この風習は養蚕と縁があります。

蚕がふ化や脱皮することを“起きる”、繭をつくることを“上がる”ということから、転んでも起き上がるだるまは養蚕のお守り、豊蚕の縁起物とされてきました。
蚕の起きが良いようにとの願いを込めて片目を入れ、良い繭が出来ると、もう一方の目を入れて祝ったのが、だるまの目入れの始まりと言われています。

(参考)
眼入れの順序
 願いごとを決めたら、まず向かって右(だるまさんの左目)に墨を入れてください。
 そして、願いごとが達成されたら感謝を込めて反対の目を入れます。
(まぁ、右でも左でもだるまさんはそんなことにこだわらず願い事をきいて下さると思いますが・・・、一応。)

高崎だるまと少林山(高崎市)

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2008年1月16日 (水)

剣聖 上泉伊勢守 ~今年は生誕500年~

前橋市上泉町の上泉自治会館の隣に建つ「上泉郷蔵」(県史跡)。

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天明の大飢饉を教訓に飢饉対策として寛政8年(1796年)に前橋藩が設置した食糧備蓄倉庫です。明治42年(1909年)まで使用され、その後も保存されてきましたが、老朽化がすすみ倒壊の恐れがでてきたため、平成3年(1991年)に全面解体修理が行われました。
このような郷蔵は各地に設置されましたが、現存するものは少なく(県内3カ所)、貴重な史跡です。

上泉郷蔵のある周辺は上泉城址で、郷蔵付近は本丸、二の丸でした。上泉城の城主は大胡氏の一族である上泉氏です。

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戦国時代、大胡城、上泉城の城主だった上泉伊勢守秀綱(武蔵野守信綱)は『剣聖』と称される偉大な剣術家です。

上泉伊勢守と聞いてもピンとこない人も多いと思います(実は私も最近までその一人)が、「新陰流」、「柳生新陰流」、「柳生宗厳(石舟斎)」などは聞いたことがあると思います。

上泉伊勢守は新陰流の創始者であり、全国を巡りながら新陰流を広めました。柳生宗厳は伊勢守との試合に敗れた後、上泉伊勢守に弟子入りし、新陰流を学びました。時代劇でよく聞く柳生新陰流の流祖は上泉伊勢守なんです。

詳しくは
 ↓
Wikipedia
  上泉信綱
  柳生宗厳
  新陰流

上泉郷蔵の西に「西林寺」というお寺があります。

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ここには上泉伊勢守のものと伝えられるお墓があります。

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上泉伊勢守秀綱が生まれたのは永正5(1508年)。今年は生誕500年にあたります。
池波正太郎が上泉伊勢守の勇壮な生涯を描いた「剣の天地」でも読んでみようかな。

上泉伊勢守顕彰・生誕500年祭実行委員会

上泉郷蔵(じゃらんnet)

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2008年1月23日 (水)

前橋プラザ元気21

前橋市街地の大型空き店舗を改装して昨年12月8日にオープンした『前橋プラザ 元気21』。先日の日曜日に初めて行ってきました。

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地下1階、地上7階の建物の中には、子供図書館、中央公民館、前橋コンベンション協会などが入っています。カフェや子供の遊び場もあって、結構賑わっています。

現在1階の“にぎわいホール”では、前橋、高崎の古代文化財を紹介する『東国千年の都展』が開催されていました。

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群馬県内に存在する古墳の規模、数、埴輪、副葬品などから「上毛野国(かみつけのくに)」と呼ばれた古代の群馬は東国の中心地であったことが分かります。

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この文化財展は前橋と高崎で行われます。元気21での展示は今日まででしたが、高崎では高崎シティーギャラリーを会場に1月26日(土)から2月4日(日)まで開催されます。

東国千年の都展

前橋プラザ元気21内には3月に地元大手スーパーがオープンし、4月には医療福祉専門学校が開校する予定です。
この施設は中心市街地へ人を呼び戻す起爆装置になるのか? 気になります。
ここから中央通りなどの中心商店街へ人を上手く回遊させることが出来るか否かがポイントでしょうか。

前橋プラザ元気21オープンまで、前橋市にぎわい観光課、ザスパーク前橋があった「旧麻屋デパート」を裏側からみたところ。

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麻屋デパートは戦前に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての建物。昔は県内外の人が遠くから足を運ぶ“憧れのデパート”だったそうです。
今は裏側から見ると“廃墟”のようにも見えますが、なかなかイイ味があります。なにか面白い活用法があるんじゃないかと思うのだけれど・・・。

前橋プラザ元気21

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今日、前橋では雪が降りました。

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でも、全然積もらず。雪遊びをしたがっていた子供はガッカリ。

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2008年1月30日 (水)

雙林寺の七不思議 (渋川市)

国道17号線、渋川市中郷の“子持入口”を斜め左に入り、「ロウバイの郷こもち」へ向かう途中に立派なお寺が見えたので、ロウバイを見た後に寄ってみました。

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その寺は曹洞宗の名刹「最大山春日院 雙林寺(双林寺)」。宝徳2年(1450年)に白井城主長尾景仲が一州正伊を迎え開基したと伝えられ、開山は一州正伊の師、月江正文禅師。

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創立当時、この寺の僧侶は2千人を下らず「雙林の水を呑まざる者は、禅僧にあらず」とまで言われました。太田道灌が江戸城を築くにあたって祈祷の委嘱があり、正文禅師は一州正伊を代理とし100余人の僧侶をつけて祈祷させたという話も残っています。

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この寺には「雙林寺の七不思議」が伝わっています。
 一.開山の一つ拍子木
 二.蛇頭水(竜神水)
 三.千本樫
 四.開山のつなぎカヤ
 五.忠度(ただのり)桜
 六.山門小僧と総門のツル
 七.底なし井戸(鏡の井戸)

千本樫
「一株から無数の支幹がはえ、この木は絶対に切ることができない。もし切ると寺か住職に災難がくる。」

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本堂の裏にあるアラカシで、県の天然記念物に指定されています。切り株からひこばえが生育したもので、根元は1本に合わさり、そこから何本もの支幹が繁っています。

雙林寺の千本カシ

開山のつなぎカヤ
「ご開山さまがカヤの実で作った数珠を持参され、それを庫裏の横に蒔いたら大木となり、その実に針糸の穴がある。」

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このカヤも県の天然記念物に指定されている巨木で、推定樹齢は500年。

雙林寺の大力ヤ

山門小僧と総門のツル
「夜、小僧が出て難問答を仕掛け、大鳥がでては荒らすので戒めの打撃をなした。翌朝、山門の小僧に腕なく総門のツルの足に穴があいていた。」

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底なし井戸(鏡の井戸)
「この井戸をのぞいて顔がうつらないと“即刻死す”と言われる」

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七不思議の中で一番コワイ話ですね。井戸を覗いてみたかですって?
怖くて覗けませんでしたよぉ(^^;)

常に二千人は下らぬ修行僧がいたという創建当時とは変わって、今はひっそりと落ち着いた佇まいの雙林寺境内。エナガが木に残った柿をついばんでいました。

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雙林寺の地図

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2008年5月21日 (水)

偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる

混乱の幕末において日本の近代化に大きな役割を果たした小栗上野介忠順。その数ある業績の一つに横須賀造船所の建造があります。

横須賀造船所の建造にあたって「幕府の運命もなかなかむつかしい。費用をかけて造船所を造ってもそれが出来上がる時分には幕府はどうなっているかわからない」と言った幕臣に対し、小栗は「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」と語りました。

その言葉のとおり、日露戦争の英雄・東郷平八郎は小栗上野介の遺族を自宅に招き次のように述べたそうです。
「日本海海戦で完全な勝利を得ることができたのは、小栗上野介さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです」。

司馬遼太郎が「明治の父」と記した小栗上野介。
彼の終焉の地は高崎市倉渕町にあります。

慶応4年、幕府の要職を退いた小栗は領地の上州権田村(高崎市倉渕町)に隠遁、教育や水田整備など村人のために熱心な活動をおこない、平穏に暮らしていました。
しかし、彼の実力と考え方に不安を抱く西軍に無実の罪を着せられ逮捕殺害されてしまいます。

小栗が斬殺された場所、烏川に架かる水沼橋の脇にある石碑。

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『偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる』
昭和7年に地元の有志によって建てられた顕彰慰霊碑にはそう刻まれています。

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小栗上野介(小栗上野介顕彰会)

小栗上野介と東善寺(高崎市)

小栗上野介 ~倉渕に眠る幕末の偉人~ (グッドぐんま)

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2008年7月 6日 (日)

山上城跡公園のあじさい (桐生市新里町)

桐生市新里町山上にある山上城跡公園(県指定史跡)のアジサイが満開です。

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山上城は藤原秀郷の子孫、山上五郎高綱による築城とされています。その後の戦国の動乱の中で支配者は目まぐるしく変わり、16世紀末に廃城となりました。
規模は東西220m、南北650m。北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並ぶ並郭構造を成しています。西側には空堀を隔てて帯郭があります。
ここは当時の城の様子が比較的良好に保存されている貴重な史跡です。

“兵どもが夢の跡”は現在では、ローラー滑り台やロープクライミングなどの遊具、芝生広場が整備された公園になっており、冬はロウバイ、夏はアジサイの花の名所でもあります。

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アジサイは山上城の空堀跡を利用した約400mの散策路に沿って植えられています。

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ハグロトンボがたくさん飛んでいました。
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山上城跡公園 桐生市

山上城跡 桐生市

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