昔の名久田川の情景を描いた随筆を書かれた篠原うめさん(76)から頂いたもう一つの作品あります。題名は『馬』。農耕馬は農業の機械化によって昭和30年代で農村から姿を消してしまいましたが、この作品は馬が家族の一員として大切にされていた頃のお話です。
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馬
篠原うめ 著
いつの頃だったか、里へ行った時のことで甥との会話の中で「叔母さん、若し此の家を物置か畜舎にするとしたらどう思う」と問われて、一瞬ええっと、とても淋しい思いが走った。子どもの頃から背伸びして拭いた大黒柱や高めの上り框、視界の物が皆懐かしく感じられた。
其の後、生家は昔のままの外形で中を改造して今大家族の生活が続けられている。
私が子ども頃、馬は農家の暮しの大きな担い手で、家族と同じ屋根の下に飼われていた。
特に父は根っからの馬好きで、馬をいつも人間と同じ様に扱っていた。いや時にはそれを越える双方の通い合いがあったのかもしれない。そのためか家中して動物を愛する心は共通していた。
春になるとあちこちに馬のお産があり、父は頼まれて素人獣医の様に出掛けていった。そして思わぬ時に、お祝いの赤飯が届いた。
家でもずっと馬の仔とりは続けていた。お産の時、親馬の背はびっしょり濡れ、体から湯気が立ちのぼっていた。やがて生れた仔馬を親が優しく舐めつくすと、仔馬はそれに答えるように立ち上がる格好をするが、よろけてしゃがみ込む。そんな仕草を数回くり返すと、よろよろと四肢で立つことができた。それを見て手を叩いて喜んだ。
やがて田の代掻きの季節が来ると、初めて仔馬は親と離れて小屋に残される。親馬を外へ引き出すと急いで大戸を締めて家の中を暗くするが、仔馬は小屋の中をさまよいながら悲鳴を上げる。田んぼが近いので、暫く親仔の啼き合いが続く。そのとき母は仔馬の連れになって、なだめながら洗濯をしていた。
夏も過ぎて秋も深まる頃、成長した仔馬を売りに出す。馬市が原町の河川敷で開かれた。きれいに磨かれた仔馬を撫でながら、だいじにしてくれる人に飼ってもらえる様にと送り出した。
日暮れになって、はるか遠くの方から仔馬を呼ぶ親馬の啼き声が聞こえてくる。ふり返りふり返りながら足取りの乱れる馬を連れて父と兄が帰って来ると、先ず仔馬はどんな人に買われたのかを聞いた。それには、大きく育てて農耕馬に使うとか、次の市場へ出す人とか、年々に一様ではなかった。或る年には一旦仔馬を家へ連れ帰って、二~三日してから高崎の大類村の買い主まで父と兄とで、送り届けに行ったこともあった。そんな時仔馬にとっては生まれて初めての長旅だが、まさか帰りのない旅などと知る由もなく、あどけなさで親に付いて行ったのだろう。父はよく馬は人間よりも利口と言っていたから、手綱を取られていく親馬の意中には悟られて居たのかも知れない。
その頃農家の不定の収入の中で、仔馬を売った代金はかなり貴重な高額だったと思った。そして暫くは仔を呼ぶ親馬のいな啼きが続いた。
父は農業の合間に好きな馬を使って、炭や薪などを運ぶ駄賃付けをした。伊勢町の菓子屋から、高山村までの街道の商店へ、菓子や砂糖の缶を運んだりもして、仕事のおかげで菓子屋さんから色々なお菓子を戴いて来てくれたことが思い出される。
正月十四日は、馬の年取りと言って、夕方馬屋の前に茣蓙を敷き、荷鞍を据えて其の前に、うどんやご馳走をお膳にのせて供えた。しばらくしてから、飼い葉桶にあけて、馬に食べさせた。そのあと一月十八日は、馬頭観音まつりで、父は馬に朝給餌をすませて、たてがみから全身爪の先まで、ピカピカに磨き上げて、乗鞍に跨り、速歩と言う軽い馳りで、尻高の観音様へ安全祈願のお参りに出かけた。
春になると「満州娘」の唄の歌詞の様に結婚のシーズンで、花嫁さんの荷物運びも頼まれた。中間(ちゅうげん)役者などと言われた様な気がする。時には馬の両脇に箪笥を付けて、その上に江戸褄の花嫁さんを横向きに乗せて、ゆらりゆらりと迎えてきた。今振り返ると、いとものどかな絵になる風景が浮かんでくる。
その時使った荷鞍は、特注らしく鞍の厚みの部分の前後には、金糸銀糸や赤黄をあしらった綺麗な模様がついていた。大切に保管して置いたあの鞍は今どこにあるのだろうか。そんな仕事の関係もあってか、父はずーと何時でも丈夫で容姿のよい馬ばかりを買って大事に飼っていた。それは私たち子どもが見ても本当に格好よかった。
一生懸命働いてくれた馬にも組替の時がやてくると、母は早起きをして、馬の好物のうどんを食べさせたり、茹湯を飲ませ、みんなで人参などを食べさせた。そして送り出す時、鍋の蓋を裏返して其の上に一掴みの塩をのせ、馬に舐めさせた様な、うろ覚えがある。多分、それから先の馬の安全を願う習わしだったのかも知れない。
居合わせた誰の目からも光るものがこぼれた。
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