佐藤垢石
佐藤垢石。
明治21年6月18日 群馬県群馬郡東村(現前橋市上新田町)に生まれる。亀吉と命名される。
明治25年4月 前橋市立桃井尋常小学校入学
明治43年4月 報知新聞社へ就職
昭和3年 前橋支局長を最後に報知新聞社を退社
昭和13年 『釣りの本』出版
昭和21年 釣り人社を起こす
昭和31年7月4日 永眠 享年69歳 戒名 大佛院本覚垢石居士。
主な著書 「たぬき汁」、「魔味談」、「鯰のあくび」、「釣随筆」、「河童閑遊」等々
群馬県出身の有名人は、福田、中曽根、小渕の首相経験者の他、沢山いらっしゃいますが、個人的には一人あげなさいと言われれば、「佐藤垢石翁」ですね。
垢石翁は昭和26年に出版された随筆「釣り随筆」の「利根の尺鮎」のなかで利根川後閑地区のアユをこう評しています「肉がしまっている。香気が高い、背の色が濃藍だ。敏捷であるのと、体力的であるのと、闘争心の強いのと、強引であるのとは、あたかも密林に住む虎か、豹にたとえられよう。」
しかし、垢石翁は同じ文章のなかで、発電用のダムが造られ変貌した利根川について「大きな姿と、味の立派であることでは日本一の鮎を育てる利根川。旅の釣り人垢石を生んだ利根川は悲しい哉いまは滅びた。」 とも書いています。
今年の利根川はどうなるでしょうか?垢石翁の少年時代のように鮎が沢山遡上し、その群れを追ってサクラマスが跳躍するような姿が戻ればすばらしいことですが・・・・・。
『この頃の日本へは、亜米利加系の虹鱒や河鱒、北海道から姫鱒などが移入されて繁殖しているが、その頃の利根川へは、古来東日本の河川に遡ってくる日本鱒である。もっとも群馬県庁水産係が明治の初年に、琵琶湖の鱒を移植したことがあるけれど、これは如何なる理由によるものか、繁殖が極めて少なく、まれに釣れるばかりである。利根川の日本鱒は、銚子の利根河口から三月中旬には、鮎と共に海の水と別れて、淡水に遡り込むのであるらしいのである。
鮭は淡水にはいると餌を口にしないけれど、鱒は盛んに餌を食う。その狙う餌は、主として若鮎の群れである。なにしろ小さくて五、六百匁、大きいのは一貫七、八百匁もあるのであるから、随分若鮎の数を食うのであろう。であるから、必ず流れを遡る若鮎の群れには大きな鱒がつきまとい、瀬際の揉み合わせに鱒が跳躍するところには必ず若鮎の大群がいた。』(「利根川の鮎」より 昭和23年4月~5月「釣り人」に掲載)
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